2012年9月17日月曜日

いまだからこそ、もう一度みよう。「ぼくらの七日間戦争」を。

もう一度みた「ぼくらの七日間戦争」

たまたま動画配信コンテンツの一覧から「ぼくらの七日間戦争」というタイトルをみかける機会があり、そのまましばらくそのタイトルをみて考えにふけった。

ぼくは「ぼくらの七日間戦争」については映画での上映が終わり、地上波で放送した機会にみたことをよく覚えている。しかし、当時は芸能などにまったく興味がなく、帰宅すれば外で遊び、外での遊びから帰宅すればゲームに夢中という小学生だったことを覚えている。
ぼくが小学生だったころについての話をすると、とにかく芸能にうとく、小学生ということもあってか、女性というものにまったく魅力を感じていなかった。むしろ、周囲が女性という存在、あるいはその恋愛の話について盛り上がっているのを冷静に傍観してしまっていた。そのためか、芸能関係についてもあまり興味はなく、よく困った質問が「タレントで例えると誰が好み?」という質問だったことが鮮明に思い出される。
要するにまったく芸能については聞かれても困るというレベルで「ぼくらの七日間戦争」のような、当時の話題のキャストによる映画が地上波で放送され、タダで鑑賞できると言われても、姉につきあわされて断片的にみた記憶しかない。
生まれつきストーリーを記憶する能力が弱く、何かを読んでもすぐ忘れていたというのもあるし、自分に対してインパクトがある事象についての記憶は強いのだが、他人のことについては興味が薄かったのである。「ぼくらの七日間戦争」についても例外ではない。鑑賞した記憶は鮮明にあるが、すべてを通して鑑賞した記憶はない。すぐに飽きてしまい、当時の自身が関心のあることに取り組むために自室に籠もったのではないかと思う。「名作と言われており、普通は喜んでみる作品なんだろうが飽きた」という自身へのインパクトが主となり、鑑賞した記憶は鮮明だが内容はさっぱりわからないという事態になっているのだろう、と今となっては振り返ることができる。
閑話休題。映画の話をしよう。調べてみたところ映画での放映は1988年であり、当時のぼくは小学生だったらしい。地上波で放送されるころの時期には中学生になっていたかもしれない。


繰り返す歴史

なぜ「いま」「もう一度みよう」なのかについて説明したい。それは繰り返す歴史を痛感することができるからである。この物語では社会の矛盾として中学校を舞台にしているが、その取り巻きの発言が恐ろしいほどに日本社会における教育についての議論の方法論に変化がないことを裏付けていると言ってよい。
戦争の早期、つまり籠城の時期に、生徒の保護者は突然の息子や娘の行方不明に不安になる。そして、学校に押し寄せている。ここでの保護者と学校側がやりとりするシーンがまさに「日本社会における教育についての議論の無変化」そのものである。
保護者は「学校側の教育に何か問題があり、このようなことが起こったに違いない。」という旨を主張し、教員側は「学校での教育は完全なものであり、保護者が家庭でのしつけを怠っている」と主張する。これは果たして「当時」と「現在」で何か相違するものがあるのだろうか。
前段で「現在」と「当時」において類似性をみてとったわけだが、考察を少し深めると、「当時」と「当時からの過去」についての類似性をみてとることもできる。
映画での放映時期の後、自分が通った中学校では、受験を意識した教育というものはなされており、劇中にあったような重い体罰などは観測されなかったものの、体罰はやはりあった。「そういう時代だった」 −−− その一言で済まされる問題であるのか、そうでないのかという議論はここではしないが、明確な事実として軽い体罰はあったし、受験を意識した教育、あるいはいじめ社会(首謀者がコミュニティ形成するため、ぼくには観測できても止める勇気はなかった)に鬱屈としたものをもっていたような生徒も散見された。表現に誇張はあったものの、それぞれが抱える心情や時代背景におけるシチュエーションとしてそれほど矛盾は感じられない。
それをふまえて考えてみるとスタッフの年齢層からして学生運動を当時の価値観で「現代化」した作品だと思えてくる。実際、終盤ではまさにそのような闘争めいたものを感じさせるシーンが登場している。これが「当時」と「当時からの過去」についての類似性である。
学べることは、人というものはたいして本質が変わらないということだろうか。とにかくこれに尽きる。鑑賞する機会のある方は再帰的に繰り返されるとも思われる歴史の輪廻を体感してほしい。そして、また忘れたころに再会してみたいと思わずにはいられない作品となった。


雑感

レビューらしいものはここまでであり、以下は雑感となる。

宮沢りえ


ぼくはポニーテールが好きです。大好きです。そして、主演はポニーテール姿の宮沢りえです。ちょうどこの長さが実にいいんです。女性の方で「あの」ポニーテールと同じ長さの方にお会いする機会もちょくちょくあるんですが「外見は女性らしさを気にとめつつも、自身の中に太い芯が通っていて話していて心地よい。しかも、面倒見が良い。」というポニーテールの長さなんです!
「現在」の宮沢りえはぼくからすれば、姉という年齢でとても気軽に叱ってくれそうな年齢差のはずが「当時」の宮沢りえはポニーテールの中学生で、上記の性格だといいなぁということを想像してしまい、えも言われぬ幸福感に満たされますね。さらには学級委員という設定がよい。ぼくもこの立場にはよく立ったものなので、各シーンでの感情面におけるシンクロ率がおそろしく高い。全体的に宮沢りえが演じる「中山さん」に神経を移入してしまった。
ついでなので、気持ち悪い話生徒の当時の髪型や服装についてをここにまとめておく。劇中では当時の宮沢りえの体操服姿をみることができ、下は当然旧式のブルマーであり、もはや完全武装である。これで夏を舞台にしていることにつけ込み、水着のシーンでもあればマニアはさらに垂涎したことだろう。他、時代的にポニーテールが流行っている時期であり、モブキャラでも強気ポニーテールというど真ん中ストライクな出演がみられるので、ポニーテールファンはそこらへんについても注目して鑑賞してされたい。

スカート丈

劇中のシーンでは校則の厳しさを表現するために、定規でスカート丈を測っているシーンがある。このシーンがまた時代を感じさせる。当然のことのように下から30cm ± 2cmという基準で規則を設けており、当時の価値観として品行方正がよろしくない女生徒においてはスカート丈を「長くする」のが普通であったということを懐かしめた。
参考としてはスケバン刑事の斉藤由貴などの服装を参考にされるとよい。

青葉区

作者によればモデルとなったのは宮城県仙台市青葉区らしいが、実際には生徒と警察が闘争するシーンで千葉県警のパトカーらしきものが到着している。これは制作の都合、撮影のロケーションが千葉県だったのだろうな、と感じた。

不明な処罰

散々あれだけのことをして、戦争といってもおかしくない事態になっています。劇中では最後に大勝利のジャンプをして終了ですが、彼ら、彼女らはあのあとどのような罰を与えられ、どれほどの苦しみをともなったのでしょうか。想像すると少し残酷ささえも感じてしまいます。あまり考えないことにしましょう。


Huluで鑑賞しました

Hulu というサービスが Apple TV をサポートしはじめてます。
Huluというのは海外で成功している動画配信サービスで、Huluで配信されているコンテンツならば、月極の固定料金で好きな時間に閲覧できるというサービスです。
Apple TV がいよいよ便利になってきたので過去の名作をたまにみようと思っていますが、ここまでのレビューを書くことはないと思います。なにしろ、今回の鑑賞は相当な感動でしたから。

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